便利な世の中になったと思う反面、面倒な世の中になったと思うことも多い。面倒くささの話だけで一年間ブログを書き続けられそうだ。
 では、最近の面倒くさい話を一つ。

 横浜市立小、3・11の給食に赤飯 「不適切」と直前に差し替え(3月16日 毎日新聞)

 -以下、上記記事から引用-
横浜市の一部の市立小学校で、東日本大震災から10年となった3月11日の給食の献立として卒業などを祝う赤飯が予定され、学校関係者から不適切との声を受けて直前に差し替えられていたことが判明した。市教委の担当者は取材に事実関係を認め「配慮が足りなかった」と話した。
 -以上、引用終わり-

 言うまでもなく3月11日は10年前東日本大震災が発災した日である。
 多くの人にとって忘れ難い日である。
 数えきれないほどの犠牲者を出したこの災害は忘れてはならないし、ここで得た教訓は後世に語り継いで行かなければならない。
 と、このあたりは今を生きる日本人の共通の思いであろう。

 がしかし、である。
 このことと、卒業や進級を祝う赤飯給食とは別問題だろう。

 だが、これを一緒くたにする人間がいる。
 あたかも大問題であるかのように報じるマスコミがいる。
 それを受けて反省し謝罪してしまう人間がいる。
 面倒な世の中というのはこのことだ。

 だいたい学校関係者とは何者だ。
 学校や教員の間から、「子供たちに3月11日の悲しみを忘れるなという話をしようとしているのに、そのタイミングで赤飯とは何事だ」という声が上がったのなら、そう書くだろう。
 が、「学校関係者」である。
 世の中に先生のことを「学校関係者」と呼ぶ人はいない。先生は学校そのものだから、ここで言う「学校関係者」は先生ではあるまい。

 「関係者」とは実に便利な言葉、と言うか広範な意を包含する言葉で、保護者はもちろん、卒業生も地域の人々も取引先も広義の関係者である。
 その誰が声を上げたというのか。
 別に記事の中で個人を特定すべきとは思わないが、ちょっと怪しげである。
 不適切というのは、もしかしたら新聞社の、この記事を書いた記者の意見なのではないか。
 「こういう声があるが、どうか」というのは記者会見などでもよく使われる質問の仕方だ。

 実際に声があるかどうかは問題ではない。
 記者個人の感想や主張にいちいち答える必要はないが、声とは読者の声であり、国民の声であるから、尋ねられた方はこう聞かれると無視しづらい。
 声を元に、何らかの見解や対応を求めるのは記者やマスコミの仕事上の技法であるから、これはまあ仕方ないだろう。

 問題なのは、こうした声に反応して「配慮が足りなかった」とアッサリ言ってしまう市教委担当者だ。
 卒業や進級を喜ぶ子供たちに配慮したんだろう。
 だから、赤飯給食を認めたんだろう。

 こういうのを事なかれ主義という。
 たかが給食1食分だ。「配慮が足りなかった」の一言で片づけてしまおう。

 子供たちへの思いなど実は欠片もなく、己の地位保全だけ。
 ふざけんな。

 ある人にとって悲しみの一日が、ある人にとって喜びの一日となる。
 365日、人々の思いはそれぞれだ。
 3月11日は赤飯禁止デー。
 スーパーから赤飯弁当が、コンビニから赤飯おにぎりが姿を消す。
 そんな面倒な世の中にならないことを祈る。