マスコミにおいて、いわゆるブラック校則がよく取り上げられるのは、読者・視聴者の食いつきが良いからである。
 取り上げる側として、それほど重要だという認識はあるまい。
 どうでもいい些末な話題であり、いわばゴミのような話題だ。
 それは分かっているが、世の中にはゴミに飛びつく人間が多いので、商売上そうせざるを得ない。

 校則なんて無い方がいい。
 そう思っているのはなにも生徒だけではない。
 先生だって、校則などという面倒なものは無ければいいと思っている。

 そんなことに時間かけたくない。
 そのために無駄な会議はやりたくない。
 生徒と言い争いしたくない。
 授業のことだけ考えていたい。

 じゃあ、いっそのこと校則など廃止して、生徒の良識に任せたらいいじゃないか。
 そう。それが理想だ。
 服装指導や頭髪指導などせずとも、「まっ、いいか」という程度に収まれば、それが一番楽でいい。

 では一気にそういう状態に持って行けるのか。
 放っておけば、自然にそのような状態が出現するのか。

 そんなわけない。

 一つの方法は、事細かく言わなくても、ほどほどのところで自制し、かつ自主的勉強に励む生徒を集めることだ。
 (ただし、高校の場合であって義務教育の公立中学校では、入学者を選べないので難しい)
 
 手っ取り早いのは学力の高い生徒を集めることだ。
 年頃だから服装や髪型も気になるが、それよりも勉強の方に関心がある。
 言ってきかせれば分かる理解力を持っている。

 だから学力の高い生徒の獲得に成功すれば、進学実績も上昇するし、面倒な生活指導からも解放され一石二鳥だ。

 しかし、そうなるためには一定のプロセスを踏まければならない。
 そして、その過程で、ある時期、「そこまで規定しなくても(言わなくても)」という指導もやむを得ずしなければならない。
 早くこんな指導から解放されたい。
 そう思いつつ不愉快な指導を根気よく続ける。

 校則が厳しいとか生活指導にうるさいという評判が立つと、それを嫌う生徒が徐々に来なくなる。
 これは学校側としても有難いことだ。
 面倒な生活指導を事前に回避できる。

 ちょっとやそっと校則が厳しくても、中にはそれでもいいとか、自分はそんなに気にならないという生徒だっているわけだ。
 で、ここが重要なところだが、そういう生徒たちが集まってくると、少しずつ「手綱を緩める」ことができる。

 その日を夢見て、不本意ながら理不尽とも思える生活指導をされている先生方。
 もうちょっとの辛抱だ。
 もうしばらくの頑張りだ。