「よみうり進学メディア11月号埼玉版」の授業取材3校目。
 本日訪問したのは本庄東高校だ。
 浦和からだと1時間15分程度と、かなり時間がかかる。
 それもそのはず本庄は埼玉県の北のはずれで、4つ先の駅は群馬県の高崎駅だ。

 さて、本日の授業見学は、教員16年目のベテラン・近藤建一教諭による3年生「日本史演習」だ。
 本日のテーマは「秩父事件と本庄市」。

 授業は歴代天皇名の唱和から始まった。
 神武天皇からはじまる120数代の天皇名を唱える。
 戦前の学校教育では当たり前のことで、大正生まれの私の亡母なども全部言えるとよく自慢していた。
 令和の教室でこれが聞けるとは。

 と言って、別に皇国史観に基づく歴史教育が行われているというわけではない。
 少なくとも江戸時代までは天皇の名を覚えていた方が歴史の流れがつかみやすいからという理由によるものだ。

 次いで唱和は、明治以降歴代首相に移る。
 伊藤博文に始まり岸田文雄まで。
 これも同じ理由。

 それが終わると、生徒一人が前に出てきて、最近注目しているニュースについて、その概要とそれに対する自身の意見を述べる。
 今日の生徒はロシア、ウクライナ問題を取り上げていた。

 と、ここまで3分ほど。
 どうやらこれはルーティンのようだ。
 一種の準備運動、ウォーミングアップか。

 そして、本題。
 今日は机を寄せてのグループワーク。
 後で聞いたところ、この方法での授業はそれほど多くないそうだ。

 秩父事件そのものはすでに一通り学んでいるようだ。
 そこで、今日の授業では地域に残る歴史資料などを用いながら、主に経済的側面から事件の背景に迫って行く。

 モニターには次々に写真や資料が映し出される。
 生徒たちはもちろんのこと、取材する私たちや参観にする先生方も一気に画面に引き込まれて行く。
 これは一体なんなのだ。
 そう思い、しばらく考え、理由が分かった。
 随所に「私」、すなわち近藤先生が登場するのだ。
 むろん画面に先生が出てくるわけではない。

 「休みを利用して資料館、行ってみました」
 「実際に見てきました」
 「その場所、歩いてみました」
 「自転車で走ってみました」

 姿かたちこそ見えないが、過去と現在をつなく「語り部」として先生が画面の中に存在するのだ。
 引き込まれる理由はたぶん、そこだ。
 
 それともう一つ。
 語りに独特の間があるのだ。
 これは授業が始まってすぐに感じた。
 生徒とのやりとりにも、絶妙の呼吸というか間合いの良さを感じられた。

 私は思った。
 「この先生、落語が好きかも」(後で確かめたが、その通りだった)
 授業中、何度も生徒たちから笑い声が起こるのだが、決してギャグを飛ばすわけではない。
 絶妙の「間」が引き起こす笑いなのだ。

 かくして、時に笑い、時にうんうん唸りながら考え、友と意見をたたかわせ、意見を発表するという全部入りの「近藤劇場」は、あっという間の50分を終えるのだった。
 
 一応、かつては日本史を教えたこともある専門家の端くれとして言っておくが、「ここは入試で出る」といった直接的な表現を使わずに、実は入試に必要な知識もきっちり押えている。
 このあたりもプロの技だと感じた次第である。
 遠くまで行った甲斐があったというものだ。