「オリンピックは参加することに意義がある」とは、子供の頃によく聞かされた言葉である。
今の子供たち、あるいは私より若い世代の人はどうなんだろう。「そんなの聞いたことない」だろうか。
◆敗者へのなぐさめか、敗者の言い訳か
これはオリンピック精神を表す言葉だと教えられた。
近代オリンピックの創設者・クーベルタン男爵の言葉だ、とも。
ネットで調べたところ、「The importance of these Olympiads is not so much to win ,as to take part」となっていたが、彼はフランス人だからフランス語で語った可能性が高い。それを誰かが英訳し、さらに誰かが邦訳した。
クーベルタンがどんな場面で、誰に向かって語ったのかは不明だが、私たちはそれを「オリンピックは出場するだけでも大変なことだ。勝ち負けだけがすべてではないのだ。参加するだけでも十分な意義があるのだ」と教えられた。
そして、この言葉は、「オリンピックは」の部分が差し替えられ、さまざまな場面で応用された。
敗者へのなぐさめならまだ分かるが、そのうち負けの言い訳にも使われるようになった。
戦って負けてから言うならまだ許せるが、始まる前から言い出す輩がいるから困ったものだ。
まあしかし、現実のオリンピックでは「参加することに意義がある」などと考えているアスリートはいないわけで、みんな勝ち負けにこだわっているのである。
だから見ていて面白い。
仮に、「参加できただけで満足です」などと言おうものなら、「ふざけんな、誰の金で行けてると思ってるんだ」と私みたいな人間に怒られるだろう。
最近は、「思いっきり楽しみたいたいです」みたいなことを言う選手も多いが、それに対しても私などは、「お遊びじゃないんだよ」とツッコんでいるのである。
極限まで鍛えあげた体で真剣勝負をしてもらおうじゃないか。
◆誰が中止を言い出すか
さて、そのオリンピック。
コロナにより大ピンチを迎えている。
開会式は7月23日。もう3か月を切っている。
IOC(国際オリンピック委員会)には中止という選択肢はなさそうだ。IOCの収益の大部分はテレビ放映権料のようだから、無観客開催でも利益は確保できる。アメリカが不参加ということにでもなれば考えも変わるだろうが、そういった様子は見えない。
東京オリンピック・パラリンピック組織委員会はどうだろう。ここには中止の選択肢はありそうだが、それを言い出せるかどうか。開催するための組織であるから、自ら言い出すことはなさそうだ。IOCの決定に従うしかない。
そうなると、日本政府(総理大臣や五輪担当相)か、開催都市東京の都知事あたりということになる。
ただ、言うことはできても決定権があるわけではない。
そういう世論を形成できるというところまでだ。
どちらにしても政治家による政治的判断だ。
無観客であれ何であれ、とにかく強行開催したほうが支持を得られるか、それとも中止の流れを作ったほうが支持が得られるか。
国民無視と言えばそうだが、選挙民のことは考えに考え抜くのが政治家というものだ。
ぎりぎりまで開催と言い続ける。
で、結果的に開催できればそれで良し。
しかし、感染状況次第では中止を言い出したほうがいいかもしれない。
その場合は、先に言った者勝ち。
老獪な二階自民党幹事長は、テレビ番組で「中止の選択肢もあるか」と問われ、「その時の状況で判断せざるを得ない。これ以上とても無理だったということなら、これもう、スパッとやめなければいけない。オリンピックでたくさん感染病をまん延させたら、何のためのオリンピックかわからない」と語っている。
実に巧妙。
条件付きながら中止もあり得ると言っているようだが、中止すべきとは言っていない。
これで世間の反応を見ている。
そして、世の中が全体が完全にその流れになったときは、以前からそのように考えていたと主張できる。
まあ今の日本の政界でこの巧妙さに対抗できるのは小池都知事くらいなものなので、都知事がいつ中止を言い出すかである。
開催都市の首長として沈黙という手は使いづらいだろう。
もちろん決定権はないわけだが、影響力はある。
政治家だからいきなり中止すべきと断言はしない。
このままでは開催は無理かもしれない、中止を視野に入れなければならないといった言い方だろうか。
すでに野党政治家、芸能人コメンテーター、マスコミ等は中止に言及するか、または、はっきり中止すべきと言っているが、決定からは遠いところにいる。
緊急事態宣言明けの都知事の言動が注目される。
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