「下着は白」は「ブラック校則」。なるほど。白が黒と来たか。上等なジョークとは言えないが、ちょっとは笑える。

 昔からブラックユーモア、ブラックジョークという言い方があったわけだが、この場合のブラックには「風刺(的)」といった意味合いがあった。
 対象となったのは人間の死とか病気とか、差別とか戦争とか、割と重たいテーマだ。
 が、今使われているブラックはこれではないな。

◆「ブラック企業」は大ヒット作だ
 ブラックマネーやブラックリスト。
 今使われているブラックはこっちだ。
 こいつは使える言葉だと気づいたマスコミが、ブラック企業などと言い始めた。
 待遇が極めて悪い企業などと言うより、ずっとインパクトがあるし、言いやすく使いやすい。
 
 ブラックも企業も目新しい言葉ではないが、これを合わせると特別な意味合いやイメージを持った新語が生まれる。
 ネーミングの面白さだ。
 誰が言い出したか分からないが、大ヒット作と言えよう。

 ネーミングでお悩みの皆さん。
 組み合わせの妙というのがあって、使い古された言葉同士であっても、新語は作れるということですよ。

 さて。
 いったん使い方が分かると、他でも使ってみたくなる。
 そして使われるにしたがって、意味も拡大する。
 ブラック校、ブラック教師、ブラック塾、ブラック入試、ブラック部活、ブラック行事。
 ブラック校則は、そういう流れの中にある。
 批判したい対象にはとりあえず何でもブラックを付けちまえというわけだ。

◆校則は国会議員が語る問題じゃない
 全国に約2万の小学校、約1万の中学校、約5千の高校がある。
 かなり大ざっぱなカウントだが、これだけの学校がある・
 中には、校則らしい校則が無い学校もあるが、学校の数だけ校則がある。

 それだけあれば、まあ変な校則もあるだろう。

 校則は地域によって異なるローカルルールという性格を持つ。
 雪国と南国では服装や持ち物や生活習慣について違いがあるだろうということは容易に想像できる。
 だから、市議会、県議会レベルで問題にするならまだ分かるが、国会議員の皆さんが目を吊り上げ、拳を振り上げて語るような問題ではあるまいと思うのである。
 「下着は白」が人権問題であるとして、それを議論するのは市議会・県議会で十分だ。
 新聞・テレビも同じことで、ローカル局・ローカル紙がやっていればいい問題だ。

◆面倒だが、校則は絶えず見直しを図る
 校則は時代によっても異なる。
 作った時は意味があったのだろう。必要だったのだろう。
 だが時間の経過と共に状況が変化し、意味を持たなくなる場合がある。

 これは法律や条例・規則も同じことだ。
 だから、絶えず見直しが図られている。
 定期的に、あるいは必要に応じて、修正を加えて行く。
 
 校則についても、学校や先生方はそのような発想を持つべきだろう。
 「これが本校の伝統だ」「とにかく決まりだ」では、今どきの生徒・保護者は納得するまい。
 生徒に理解させ、納得させ、行動させるのは骨の折れる仕事だが、是非そうして欲しい。

◆学校や先生に自由を
 規則やルールで縛られているのは子供たちだけではあるまい。
 大人も縛られている。
 いや、大人こそ縛られている。
 それに比べれば、校則なんてチョロいものだ。

 自由を得ていない大人が子供に自由を与えてやれるだろうか。

 学校や先生方は何かに、何者かに縛られている。
 それが児童生徒を縛る遠因になっている。
 私はそのように見ている。

 個別の校則を取り上げて、ああだこうだと学校や先生方を批判するのは面白いかもしれないが生産的ではない。
 それよりも、「ああしろ、こうしろ」「あれもやれ、これもやれ」という過度な縛りから学校や先生方を解放してやることだ。
 学校や先生方も無制限な自由が与えられるなどとは端から思ってはいないわけだし、その方が話が早い。

 佐賀県教育委員会が全県で「下着は白」の校則を削除させたというニュースがあった。
 県教委から指示命令されないと校則一つ変えられないのか。
 そうじゃない。
 この体質、この体制こそ問題にすべきなのだ。

 学校や先生方がもっと自由に校則を変えられるような環境だったら、とっくに変わってるよ。
 今どき、「下着は白」と本気で考えている先生がどれだけいるか。
 ユニクロ行ってみろ。
 白さがす方が大変だ。