やっぱり目標校は必要だよね。これ、中高大学の受験話じゃなく、学校マーケティングの話。今日、某教育関係者と懇談する中で、このことが話題になった。
 仕事柄。いろいろな学校を訪ねる。どの学校も改革に熱心だ。中には熱意というものがまったく伝わって来ない学校もあるが例外だ。みな、より良い学校づくりに邁進している。

 そこで質問してみる。
 「で、要するに、どういう学校を目指しているんですか。たとえば既存の学校で言えばどこの学校を目標にしているんですか?」。
 すると、「目標はズバリ〇〇高校です」と返ってくる場合もあるが、「いや、そういうのは特にないです。というか、既存の学校にはない学校づくりを目指しているので、どこを目標にするとかライバル視するとかはありません」という答えもよく聞かれる。私はこの答えやその背景にある考え方を支持しない。

 これまでにない新しい学校づくり。大変結構。オリジナリティは重要だ。
 しかし、これまでにないのであるから、言っている本人は分かっていても、聞いている側はイメージできない。イメージできないものは理解できないし、共感もできない
 要するに伝わらない。

 先生方は授業中、例え話をするでしょう。昔のことを理解させるために、今あるものに例えてイメージ化を助けてあげる。
 ふだんやっているその手法をなぜ使わないのか。
 聞く側の立場に立って、「〇〇高校のように○○に強い学校」とか「○○が盛んな学校」と言ってあげた方が親切である。

 先生方は「学びの始まりは真似ぶ(真似る)」であると教えている(と思う)。
 より完成度の高い学校をベンチマークし、(この場合、めざすべき目標という程度の意味)、徹底的に分析し、それに近づこうとするのは悪い事ではない。一刻も早く追いつき、並び、そして追い越す。目標実現までの時間短縮という観点からも、「○○高校みたいな学校をめざそう」というのは合理的思考だ。
 しかし、そこまで行くと今度はお手本がなくなるので、オリジナリティの出番となる。
 そういう段取りだ。

 「君は将来どんな人間になりたいんだ?」
 「世の中を変えるような人間になりたいです」
 「そうか。すばらしい。で、例えて言えばどんな人?」
 年中繰り返してきたこの会話を思い出せば、「これまでにない新しい学校づくり」がいかに陳腐で理解不能な表現であるかが分かるだろう。