忘れている人も多いと思うが、今日は埼玉県の「県民の日」である。学校は休みになるが今年は土曜日、来年は日曜日と重なり有難みに欠ける。が、県民の日を制定していない県もあるのだから贅沢を言ってはいけない。
 11月14日が埼玉県民の日であるのは、1871年(明治4年)廃藩置県により、この日「埼玉県」が誕生したからである。

 埼玉県ホームページに「埼玉県民の日とは」というページがあり、昔の埼玉県の略図がある。これ↓
 
 地図を見ると、当初は荒川を境にして東側が「埼玉県」、西側が「入間(いるま)県」だったことが分かる。県庁は川越に置かれたのに川越県ではなく入間県だったというのが面白い。

◆一時は群馬も埼玉だった
 で、この状態は1年半ほどで終わって、明治6年には「元祖埼玉県」はそのままで、「入間県」は「熊谷県」となり、しかも「群馬県」まで吸収して巨大な「熊谷県」が誕生するのである。この「超特大熊谷県」の中心は、前橋や高崎を差し置いて熊谷なのである。
 そのまま行けば、赤城山も草津温泉も「超特大熊谷県」であり、「元祖埼玉県」としては分が悪かったわけだが、長くは続かず、明治9年には「群馬県」が再び分離され、小さくなった「熊谷県」が「元祖埼玉県」に吸収される形で「現埼玉県」が出来上がったのである。
 なぜこのような変遷があったかはよく分からない。
 本庄や深谷や熊谷は気候や言葉が近い「群馬県」の方に組み込まれてもおかしくはなかったが、埼玉にとどまって良かった。

◆荒川を境に二つの文化圏
 当初、荒川を境に東西に分割されたことからも分かるように、埼玉県の東側と西側では文化圏が異なるのである。
 旧浦和市民である私にとって、春日部・越谷・草加などが比較的近い存在に思われるのに対し、川越や所沢が遠い存在と感じられるのは、文化圏の違いによるものかもしれない。

◆やはり県庁所在地ブランドは魅力
 県庁所在地は、ほぼ一貫して浦和であったが、一時だが「超特大熊谷県」を率いた熊谷、城下町として歴史の古い川越、鉄道の要衝として栄えた大宮、明治初期の一瞬だけ県庁が置かれた岩槻などが、県庁所在地に色気を見せた。
 が結局、浦和の牙城は崩せなかった。

 現在は、浦和・大宮・与野の三市が合併し、さいたま市が生まれ、ついでに春日部や久喜の仲間だとばかり思っていた岩槻を加え、人口130万の政令指定都市となっている。
 県庁所在地ブランドにこだわる人も多いらしく、大宮の人々は虎視眈々とその座を狙っている。対する浦和は明治以来の座を守ろうと懸命である。そして、この両者の間隙を突いて「さいたま新都市」に県庁を移転させようと目論んでいるのが両者の間に位置する与野という構図である。勝手にやってろ。

 以上、県民の日に因み埼玉昔話であった。