昨日3月10日が卒業式だった高校も多いだろう。
 今日はやらないが、校長式辞のまとめをやらなくてはと思っている。

◆定年は段階的に65歳に延長
 この3月で教壇を去る先生も多いだろう。
 昔は60歳定年だったが、今世の中は65歳定年に向かっている。
 すでに再雇用(再任用)制度などにより、事実上の65歳定年が実現しているかに見えるが、約10年後には名実ともに65歳定年が完成するわけである。

 余談だが、テレビや映画でサラリーマンが定年を迎える日が描かれる。
 民間の場合、定年年齢を迎えたその日が退職の日となることも多いようだが、教員を含む公務員の場合は、定年年齢を迎えた日を含む年度の最終日が退職の日となる。
 ややこしい言い方だが、例えば4月が誕生日で60歳になっても、翌年3月までは定年退職とはならないのである。

 で、そういった法的なことはさておき、働けるうちは働いた方がいいぞ、というのが今日の話だ。

◆ストレスゼロが必ずしもいいわけではない
 以前にも書いたと思うが、探すのが面倒なので改めて書く。

 まだ私自身が定年などはるか先だった若い頃の話だ。
 定年退職された先輩方(特に平教員のまま退職された方)を見ると、大きく二つの選択があったように思う。
 一つは、非常勤講師などで学校に残る人たち。
 もう一つは、教育の世界を離れ、趣味の世界に向かう人たち。

 まだ若かった私は、学校に残る選択をしたジジイやババアを見て、なんで先生にこだわるのよ、と思った。
 せっかく自由の身になったんだから、楽しく遊んで暮らせばいいのに。そう思った。

 その点、趣味派は生き生きしている。
 日本や世界を旅してきた話、趣味の陶芸の話など、定年後の人生を謳歌しているように見えた。
 定年後は自分もこんな生き方をしよう。
 ガキだった私は不覚にもそう思ってしまった。

 が、その考えはすぐに変わった。
 なぜかというと、最初は元気だった趣味派が次々と亡くなって行ったからだ。
 一方、ズルズル先生派は、定年時と変わらぬ元気さだ。
 これは一体何なのだ。

 私の出した結論は、「生きて行くには適度なストレスが必要」というものだ。
 趣味派には人間関係のストレスがない。
 気に入らない人間とは付き合わなければいい。
 だが、組織に属していたらそうは行かない。
 現役バリバリの頃ほどではないが、対先生、対生徒、対保護者などとの関係は避けられない。

 そうか。ストレスゼロは良くないんだ。
 というのが学術的、科学的根拠ゼロの個人的・直感的な結論だ。
 「よし、自分は体の続く限り、勤め先がある限り先生を続けるぞ」と決めた。

 が、そう言うそばから、定年の20年も前に先生を辞めた。
 アホか。

◆年齢で身の振り方を決めない
 ただ、年齢によって仕事上の区切りは付けないという考えは継続している。

 60歳以降はのんびり過ごそう、65歳以降はゆっくり生きよう。
 それは、人それぞれの生き方、考え方だから、とやかく言うつもりはない。

 気になるのは、「もう60歳だから」、「もう65歳だから」と年齢を理由に身の振り方を決しようという考え方だ。
 「気力や体力が続かないから」というなら仕方ない。
 しかし、まだ仕事を継続できるだけの気力、体力が残っているのに、年だからと辞めてしまうのはもったいない。
 働く機会さえ見つかれば、どこまでも働き続けたほうがいい。

 世の中には、労働は苦痛であり、生活の為止む無く行うものだと考えている人もいるようだ。
 そういう人たちに、死ぬまで働けと言ったら、冗談言うなと叱られるだろう。
 だが、その仕事の中身が自分の生きがいであり、もしかしたら天職じゃないかと考えている人にとっては、年齢を理由に辞めたり、辞めさせられたりする方が苦痛だ。
 
 どっちみてフルタイムの仕事なんて、そうそう簡単に見つかるもんじゃない。
 働きつつ遊び、遊びつつ働く。
 気がついたらあの世行き。

 どこか良い働き口(学校)はありませんか。
 誰か良い先生はいませんか。
 この世界ではそれなりに顔が広いと思われているらしく、私のところには年中そんな話が舞い込む。
 が、申し訳ないが、人づきあいの悪い私が、そんなに顔が広いはずがない。
 大したことはできない。
 ただし、出来る限りのことはする。
 豊富な知識と経験をそのまま灰にしてしまうのはもったいないと思うからだ。