取材で県立大宮光陵を訪ねた。教員時代に勤務していた大宮南とは直線距離で300mほどしか離れておらず、かつ田園地帯であるから当時は毎日のようにこの学校を見て過ごしたわけである。
 創立は昭和61年(1986年)。

 昭和40年代の終わりから50年代にかけて、生徒急増に備え次々に県立高校が作られた。
 年間5、6校ペースで新設され、それが10年以上にわたって続いたものだから、県立高校の数は一挙に倍増した。
 それらをまとめて「新設校」などと言った。

 ピーク時、県内中学校卒業生数は11万人を超えていた。
 現在は6万人を少し上回る程度で、間もなく5万人台となる。

 とりあえず入れ物を作る必要があった。
 校舎の設計はワンパターン。
 場所は駅から遠く離れた田園地帯。
 学科は特別な施設設備を必要としない普通科。
 コスト削減を図るためである。

 昭和も60年代に入ると大量新設は一段落し、以後作られる学校は場所は相変わらずだが、普通科一辺倒ということはなくなった。
 それに伴い校舎もやや個性を取り戻した。
 昭和60年 三郷工業技術 狭山経済
 昭和61年 大宮光陵 越谷総合技術
 昭和62年 和光国際 久喜北陽
 昭和63年 鳩ヶ谷
 といった具合で、昭和末期に普通科単独校は作られていない。
 なお、平成に入ると一転統廃合の時代となるわけだが、その話はまた別の機会にしよう。

 大宮光陵は普通科8クラス、音楽科1クラスでスタートした。
 この時期、新たに普通科単独校は作らないという方針があったのは分かる。 
 学校に特色を持たせようという意図も分かる。
 だが、何だって普通科と音楽科の組み合わせなんだ。
 この謎は未だに解けない。

 和光国際は普通科、外国語科、情報処理科(現在はない)の組み合わせ。
 昭和の終わりは「国際化・情報化」がキーワードだったためだろう。
 鳩ヶ谷は普通科、園芸デザイン科、情報処理科の組み合わせ。
 園芸デザイン科を設置したのは、植木で有名な安行(あんぎょう)に近いためだろう。
 と、一応理屈は通るのだが、普通科と音楽科は謎の組み合わせだ。

 大宮光陵には翌年美術科が設置され、少し間をおいて書道科が設置された。
 だったら最初から大宮芸術高校にすればよかった。

 ともあれ、普通科と芸術系学科という不思議な組み合わせの学校が出来上がり今日に至っている。

 この不思議な組み合わせは、それはそれで特徴と言えなくもない。
 が、普通科としては学校イメージを打ち出しにくくなった。

 芸術系学科は施設設備や指導スタッフにも恵まれ、東京芸術大などにもコンスタントに合格者を出しているが、普通科からすれば別世界の話だ。
 組み合わせの相手が理数科のように進学イメージが強いものであれば、普通科のイメージがそれに引きずられるということもあるが、相手が芸術では難しい。
 むしろ、芸術系学科の評価が高まれば高まるほど、普通科の影が薄くなる可能性の方が高い。

 なかなかかじ取りの難しい学校である。