ステイホームのGWも今日で終了。さあ明日からまたバリバリ仕事をするぞ。
 というのは嘘で、6日と7日は緩いスケジュールにしてある。
 フル回転は来週からだ。

 役所や学校の動きがなく、教育関係のニュースがないので今日は雑感(まとまりのない感想)ブログである。

 人には「できること」と「できないこと」がある。
 当然だね。
 できないよりは、できたほうがいい。
 だから、学校や家庭における教育では、「できないこと」を「できること」にしてあげることを目指す。
 それが上手く行けば、本人も達成感を味わい、自信を持ち、自己肯定感も高まる。他のこともやってみようという意欲も湧いてくるかもしれない。

 ただし、必ずしも「できること」が善で、「できないこと」が悪というわけではない。
 もし「できないこと」が悪であるとしたら、私などは極悪人と言うしかない。
 「できないこと」の方が、「できること」よりも圧倒的に多いのだ。
 だが、それでも何とか生きて行ける。と言うか、生きて来られた。
 そういうわけだから、「できないこと」があったとしても、あまり気にしないほうがいいと思う。

 「できないこと」を「できること」にするために努力するのが大事なのではないか?
 そう。それは一理ある。

 たしかに最初から「できないこと」と決めつけて、やってみることさえしないのはもったいない。
 やってみたら意外に面白く、また、できてしまうこともあるからだ。
 でも、やってみて、やはりできなかったら、これは自分にとって(この子にとって)「できないこと」なのだと見切りをつける。
 「できないこと」イコール悪、ではないのだから、それでいいではないか。
 もし努力という言葉を使いたいなら、また、努力という行為を大切なものと考えるなら、それは「できること」に向けたほうがいい。

 「できないこと」を努力の結果、「できること」にした。
 素晴らしい。
 そういう経験も貴重なものだ。
 ただ条件がある。
 その努力が自発的なものである場合に限り、貴重な経験となるのだ。

 「あなたならできるはずよ。がんばりなさい。やってみなさい」
 これはもうダメ。
 強制。もしかしたら脅迫だ。
 こういう形である種の成功体験を得た子供は、「やればできる」でとどまればいいが、下手をすると「なんでもできなくちゃいけない。できないのは自分の努力不足」と考えるような人間になる。
 これは生きづらいね。
 自己肯定感を目指していたはずが、自己否定感を持ってしまう。
 それと、「やればできる」で得た自信は、やってもできない人への蔑視につながる恐れもある。

 「できないこと」の多い自分を受け入れられる。
 自己肯定感って、それでしょう。

 子供たちが何かをやろうとしている時、何かに挑戦しようとしている時、結果を見てからではなく、始まったその時に評価する。またはその最中(プロセス)を評価する。
 できたか、できなかったか、上手く行ったか、行かなかったかといった事後的評価はしない。
 
 もう、やらない。
 もう一回やってみる。
 それは本人が勝手に決めればいい。

 最近流行りの自己肯定感であるが、これを獲得させようとして努力を迫ったり、結果を得て自信をつかませようとすると、ちょっと違った方向に行ってしまいそうで心配だ。