行き過ぎた平等主義。などと言うと、平等に行き過ぎも何もないだろう。とことん平等、とことん公平を目指すべきだろうと反論されるのは目に見えている。おっしゃる通り。不平等・不公平はないほうがいいに決まっている。
 だから論点はそこではない。

 何か新しいことを始めようとするとき、初期の条件の平等にこだわると、話が前に進まないことが多い。下手をしたら条件が揃うまで2年でも3年でも待ちましょうということになる。もしかしたら永久に揃うことはないかもしれない。

 そこで、スタートラインにおいて、多少の不平等があったとしても、それらをプロセスの中で解消して行けないか、そして最終的に平等・公平が実現できればいいではないか、そのように考えてみる。
 初期の条件について、平等だ、いや不平等だと言い合うのは議論とは言えない。少なくとも生産的ではない。

 多くの場合、初期の条件がピッタリ揃っていることの方がむしろ稀であるから、それは所与の条件として受容する。つまり、大なり小なり不平等・不公平はあるよねと認める。そこが出発点。
 その上で、プロセスの中でどう解消できるかを考える。議論はそのためにある。答えは何とか見つかるはずだが、たいていは初期の条件の平等・不平等のところを堂々巡りしているから、たどり着かない。
 考えても考えても、プロセスの中で解消する策が見つからない。ということは不平等・不公平が結果にまで持ち越されるわけで、その場合は、初期の条件がプロセスの中で解消可能な範囲に揃うまでは、やらないことが正解になる。

 はい。皆さんすでにお気づきのように、私は休校期間中の学習指導について話している。
 が、それだけではない。学校再開後の指導についても同様のことが言える。

 私は教員時代、公立学校だからかもしれないが、初期の条件の平等・公平にこだわり過ぎたために、やれば出来たことをずいぶん見送ってきたように思う。
 いわば不作為の罪。大きな反省点だ。

 作為(やったこと)は時間の経過と共に明確な結果が出るが、不作為(やらなかったこと)は、せいぜい悔恨の念が残るくらいで、責任を問われることはない。今の世の中、昔に比べ作為の失敗に不寛容になっているような気がするので、どうしても不作為に流れがちだが、ここは勇気を持って一歩前に踏み出さなくてはなるまい。

 追伸:あーあ、今日で連休終わりだけど、考えてみたら明日からも仕事ないな。定年で無職になるというのはこういうことなんだろうね。ってことは前にも書いたか。